(聞き手)
発災当時、
学校では震災や防災での
役割分担というのは決めてあったのでしょうか。
(粟野様)
まずは暖を取らなければならないという事で、校庭に穴を開けて火を焚きました。女性教員には買い出しに行ってもらいました。すぐ向かいの山王地区公民館に住民の皆さんが避難し始めて来たので、夕方から夜中まで、その車の整理をしていました。
山王地区公民館の駐車場はいっぱいになったので、
学校の校庭にも誘導してという作業を、その日は夜中過ぎまでやっていました。
(聞き手)
先生方は、とても苦労をされたというお話をよく聞きますが、いかがでしたか。
(粟野様)
今の教員の中には亘理方面に勤めていた教員もいますし、ヘリコプターで救助されるまで屋上にいた教員もいますので、その人たちに比べたら、たいした事はありません。
もっともっと大変な思いをされた方や、ご家族を亡くされた方もいますから。
学校における避難所の運営は、市職員を責任者にして運営してもらおうと決めていました。これにより、私たち教員はその手伝いをしながら
学校の復旧に当たることとしました。
上手く仕事を分担できたので、それほど
負担を感じる事はありませんでした。
(聞き手)
だいたい何人くらいの方が避難のため、来られたのでしょうか。
(粟野様)
100人くらいだったと思いますが、他の
学校はもっと桁が違うと思います。
別の
中学校などは、校舎の中にまで避難者を収容していましたが、こちらはそこまでではありませんでした。
教員の
負担は、
学校によっても、全く違うと思います。
(聞き手)
避難されて来た方が、全員退出されたのはいつ頃でしたか。
(粟野様)
記録では4月9日まで避難所になっていたと書いてあります。
4月7日の強い余震で、皆さんがここから退出されて、自然と避難所ではなくなりました。
老朽化している体育館で、寒い日が続いたもので、目張りをしたり、窓が割れていた部分にはベニヤ板を張ったり、壁の隙間を雑巾で埋めたりしました。
(聞き手)
粟野様は教員という事で、家族のことを省みる事はなかなかできなかったのではないでしょうか。
(粟野様)
震災の日は、心配だったもので、夜中に1時間だけ帰りました。家族全員で、自宅近くの
中学校に避難していたので、安心してまた戻って来ました。
子どもたちに、何かあったら近くの
中学校へ行くようにという事は伝えてあったので、それが最終的な拠り所になりました。
自宅に誰もいなくても、どこにいるかの目星がつきました。そういった、家族内での決まりごとのようなものは日頃からありました。